
天然痘の感染力、罹患率、致死率の高さは古くからよく知られる疫病 として人々から恐れられていた。
治癒した場合でも顔面や体に痘痕(あばた)が残るため、忌み嫌われていたと江戸時代の文献には記録がある。エジプトのミイラにもこの天然痘に感染した痘跡がみられた。
古い昔から人類を苦しめてきた天然痘を世界で初めて根絶に導いたワクチン開発。
開発者・エドワード・ジェンナーとはどのような人物だったのだろうか。
先人たちの偉業の足跡を辿ってみる。
Contents
天然痘の主な症状
天然痘ウイルスに感染してから約2週間後に、39℃以上の高熱、倦怠感、頭痛、嘔吐などの全身症状が現れ、3~4日ほど経過するといったん熱が下がり、顔や四肢を中心に強い痛みや灼熱感を伴う斑状の皮疹が現れる。
皮疹は当初、斑状の丘疹(皮膚の盛り上がり)だが、経過とともに水疱(水ぶくれ)となり、さらに膿疱(水疱の内容物が膿となる状態)を形成した後にかさぶたとなって治癒。
皮疹が水疱になるころにいったん下がっていた熱が再び上昇するのが特徴で、治癒後に落ちたかさぶたにも強い感染力がある。致死率は20〜50%、死亡原因は主にウイルス血症によるものであり、1週目後半ないし2週目にかけての時期に多く、その他の合併症として敗血症や肺炎、脳炎、気管支肺炎、などが死因となることも少なくない。
1980年5月WHOにより根絶宣言がなされ、現在ではアメリカとロシアの一部の研究機関のみ、サンプルとして保存されているだけとなり、今では自然界で見ることもなくなった。
エドワードジェンナーの一生
エドワード・ジェンナーは1749年5月17日にイギリス・バークレイ生まれ。どこまでも丘が続き、放牧が盛んな酪農地帯の小さな村である。
12歳になったジェンナーはブリストルに近いソドバリーの開業医・ダニエル・ラドロウに弟子入りし9年間、医学の勉強をする。
たまたまラドロウ先生の元へ診察に来た農村の女性が「私は前に牛痘にかかったので、天然痘にかかることはないわ」と言ったこの言葉がジェンナーの心の中に深く刻まれ彼の生涯の研究につながる。
古くからイギリスの酪農地帯では牛の皮膚に痘疱が多数できる伝染病がたびたび流行していた。
乳牛の乳房に多数の痘疱ができ、乳搾りの人のてがこれにふれると、手の傷から牛痘にかかり、2-3週間後には瘡蓋となって治っていた。
1770年21歳になるとロンドンへ医学修行に行く。ジェンナーは当時最も優れた外科医、植物学者として有名なジョン・ハンターの家に住み込みの弟子となる幸運に恵まれた。
ハンターはとりつかれたように「牛痘」に夢中になるジェンナーにこう伝え続けた。
後に有名な言葉となる
Do not think, but Try. Be Patient and Be Accurate
考えるな。とにかく試してみるんだ。辛抱強く、そして正確に。
1773年24歳の時、ジェンナーは故郷のバークレーに戻り、開業医となり牛痘種痘法の開発にとりかかる。
Do not think but Try(考えるな・とにかく試してみるんだ)
牛痘にかかった人間は、手に水膨れができる。そのことからジェンナーは、まずは水膨れの中の液体が、何らかの方法で病気になるのを防いでいるのだと結論づけた。そしてジェンナーは、自分で考えた仮説を試してみることにした。
ジェームス・フィリップスというジェンナー家使用人の息子が実験台になり、まずブラッサムという牛の乳搾りの女・サラにできた水泡から液体を取り出す。そしてジェンナーは取り出した液体の一部をジェームス少年に“接種”。こうしたやり方をジェンナーは何日間もかけて、何度も繰り返し、接種する量を徐々に増やしていった。
そして細心の注意を払って、ついに天然痘を少年に接種に初めて成功。ジェンナーはこの後も11歳になる息子ロバートを含む23人の子どもたちをグループに分けて考察を繰り返した。
その結果、牛痘種痘を施した子は全員が天然痘に対する免疫を獲得している事実を確認したのだった。
これまでヨーロッパで広く行われていた「人痘法」は天然痘に感染した患者の体液を健康な人に接種し、あえて天然痘を発症させて免疫を作るという乱暴な方法だった。
効果はあったが2~3%の人が重症化し死に至る危険なもの、その上、生涯顔に醜い痘痕(あばた)を残す人が多かった。しかし、ジェンナーが辿り着いた種痘であれば重症化の危険性も痘痕も回避できたのだ。
Be Patient be Accurate(辛抱強く・そして正確に)
その後ジェンナーは研究の成果を論文にまとめ1797年、英国王立協会の機関誌「Philosophical Transactions」に投稿。しかし協会からは不完全なものとして返されてしまう。
ジェンナーはその後、2件の症例を追加して「Inquiry」を自主出版。
「Inquiry」は医学や生物学に多大な貢献をした。予防医学ならびに免疫学の基礎となり炭疽菌に対する免疫研究の道を切り開き、それから75年後に狂犬病を研究したパスツール、結核菌のコッホらに受け継がれている。
こうした成功にもかかわらず、ワクチン接種を快く思わない人もいたという。
ワクチン効果が疑われるようになった理由の1つとして、接種法の不徹底がある。
例えば、牛痘とは無関係の、牛の乳房からでてきた浸出液を牛痘と勘違いして使用した医師がいた為だ。こうした浸出液を使った医師たちは、天然痘予防は失敗だったと報告し、ジェンナーの元には批判や中傷の手紙が届き続けた。
しかしこうした雑音を打ち消すかのように辛抱強く・正確な実験結果を主張し続けたジェンナーの成果は世紀の発見と称されはじめ「Inquiry」を出版してから3年後、天然痘ワクチンは世界中で使用されるようになった。
1802年、英議会もそんなジェンナーに対し1万ポンド、さらに5年後には2万ポンドの褒賞金を与えている。褒賞金を出すことで政府公認の印象を作り、種痘をいち早く国民に認めさせる狙いがあった。
イギリス政府はジェンナー以外の方法を禁止したにも関わらず、彼は種痘法の特許をとることはしなかった。なぜなら、特許をとるとワクチンが高価なものになり、多くの人々に行き届かないとの考えからである。
それどころかジェンナーは問い合わせがあれば世界中、誰が相手でも私費で指南書やサンプルを提供し続けた。1823年1月26日脳卒中の為、死去。享年73。
ワクチンという言葉はラテン語で牛を意味する“vacca” から来ているのをご存知だろうか。
ジェンナーの研究に協力した牛のブラッサムと、乳搾りの女サラに敬意を表してのことなのだろう。
その後、ジェンナーは「近代免疫学の父」と呼ばれ、その功績は今もなお世界中で高く評価されている。
現在、彼の故郷の町には牛のブラッサムの角の飾られた小さな博物館が建っている。
また脚光を浴びる事を嫌い都会暮らしを避けてきたエドワード・ジェンナーの立派な銅像はハイドパークの奥にひっそりと立っていて、今、新型コロナウイルス感染症と戦う私達を見守っている。