江戸時代の江戸の人口は1200万人。大英博物館所蔵の資料によると、1690年頃には疱瘡・麻疹・フィラリア症・天然痘などが大陸由来の感染症として日本全国で広がっていたとされる。

今回の新型コロナウイルス感染症において話題となった「アマビエ」も厄病よけ信仰の一例であるが、人は未知なる死病の蔓延の恐怖にさらされると時代に関係なく、人々の心に強い信仰心を育て、このような神秘的な救いを求めるものなのだろう。江戸時代は皆、迷信深く、ただ疫病の恐怖に震えていただけと思われるかもしれない。しかし、じつは必要と思われる対策を懸命に行い戦っていた歴史がそこにある。
参考にさせて頂いたのは歴史学者・磯田道文氏のラジオ出演での話。
彼は「歴史とは靴である」安全に世の中を歩く為の靴だと言う。過去にさかのぼりそこにヒントがないか・・・
江戸時代の天然痘の例をみてみると、当初の感染対策と言えば、わざと感染者から贈り物をもらい、それを触れば予防ができる・・・子供の頃にかかっておけば軽く済むと信じ、わざと子供を患者の側で過ごさせる・・・そもそもこれは疫病神の祟りなのだから、張り紙をして追い出そう。そう迷信を信じていた。ただ現代にも通じる感染対策も行われており、銭湯や店が4時には閉まるという「時短営業」がその1つ。が、ある時期から隔離等の感染対策を提唱した医者いた。それが「橋本伯寿」*だ。
「接触感染予防」感染者には近寄らない、感染者から贈り物をもらったら速やかに処分する事、天然痘患者からもらった食べ物からはすぐに移るので口にしない事。江戸時代、天然痘でなくなった人の古着を売りに出し、そのまま着ている事も多々あった時代、古着をそのまま着るのではなく洗濯してから着る事など。
「空気感染予防」稽古場(塾)などの場所は一時的には行くのを辞める事、お祭りや芝居など人の集まる場所には行かぬように。
「隔離対策」また人里離れた場所に隔離小屋を作り、感染者を隔離する、看病する人は以前、天然痘にかかった人を雇う。
私達が今回の新型コロナウイルス・パンデミックで行ってきた感染対策は、まさにこの「橋本伯寿」が提唱した事なのである。
抗体を持った人を看病にあてるという免疫獲得概念もあったという。科学的な根拠を見つけだすことは無理であろうから、全ては経験だったであろう。特効薬やワクチンのない新型の死病への対策は今も江戸時代と同じ、経験から得る対処法でしかないという事なのか。
日本全国を見ると藩によってもさまざまだったようだ。
長崎県・大村藩では隔離はさせるが家族も立ち入れず、生活費も自己負担。持ち込んだ品物は持ち帰れないのでひと財産がなくなってしまったというような保証なき隔離対策だったようだ。
山形県・米沢藩は感染したとしても登城が許される行政を止めない対策をした藩だ。その代わり、医師団を呼び出し、専門家対策チームを作る。医療格差を問題視し、山奥の村を助けるべく、医療の無償提供や給付も行った。しかしそれでも当時の感染者は8300人死者は2064人が出たという記録が残っている。名君が手を尽くしても感染症を退治する事は難しいという今の私達の状況を示している。
小さな藩・岩国藩(毛利家の一族)は濃厚接触者を徹底的に隔離するという対策をとり、また隔離中、働けない分の生活費を全額援助するという対策を取る。現在の価格にすると約6000万円以上の保証を支払った可能性があるという。小さな藩にしては大きな金額だ。藩にとっては大きな痛手ではあったはずだが、この対策は効果があった可能性が高い。なぜなら岩国藩主の殿様が感染したという文書が存在しないからだ。
こうしてみると、昔も今も繰り返されている感染対策が古文書を読み解くことで見えてくる。
*橋本伯寿(はしもと・はくじゅ) 生年不詳 天 保 2(1831)・ 12[没] 江戸後期の医者.甲斐 国(山梨県)市川大門村の曽祖父以来続いた医 家に生まれる.長崎に遊学して吉雄耕牛,志筑忠雄に 蘭学を学び,帰途大村,天草を訪れて天然痘患 者の厳重な隔離による避痘効果を体験した.さ らに多くの実見によって隔離法による伝染病の 予防対策を提唱,文化 7(1810)年「断毒論」 を著し,天然痘・梅毒等の伝染説を唱道した。